昭和48年02月04日 特別奉修委員会
どうにも出来ない者の事を、「もうこの人ばっかりは、煮てん焼いてん食われん」という人がありますよね。もう味の付け様がない。もう煮てん焼いてん、この人ばっかりは食われる人じゃなかですばのち。と言う様なのがありますが、私共の心の中にもありますねそれが。もう是ばっかりは煮てん焼いてん食われんち言うものが。だからね信心ちゃいっちょそれを本当に、おかげ頂く事ですよね。もう自分が楽でない。
自分がおかげ頂けんのは、この煮ても焼いても食えんと言った様なものが内容にある証拠ですからね。是をいっちょ頂かないかん。昔頂いた御理解の中に「楽と言う事は、大きくなる事だと」。もう本当に許せないとか、自分の心の中にちょっとそこが引っ掛かって、それがイライラとかモヤモヤの元になるという。結局自分が小さい証拠ですから。ですからはぁこれが心が大きゅうなるための薬だと思うてね。
是が大きなおかげを頂くための、ここば飛び逃がしよったら、おかげは頂かれんぞと、今のまま堂々巡りいつまっでん、とやっぱ思わないかんです。これがいわゆる大きゅうなる薬これがおかげ頂く、これば頂ききらんならおかげ頂けんと、いっちょ思うてですね、いよいよ大きくなる。心が大きくなりますと、一切のことが心の中に泳がせられると、こげん楽なことはない。
そういう楽と最近言われる、傍楽という最高の楽たいね。そのところに一生懸命精進させて頂いておるとです、いつの間にかそういう大きくなる事の為にゃ楽。傍を楽させる事の為の修行が出来よりますとね。それこそ今日の熊谷さんのお話じゃないですけれども、子供から、いわゆる目下の者から喧しゅう言われながらでも、心の中じゃこの人ばどげん言うちから喜ばせようかと言った様な心が生まれてくるんですよ。今日秋永先生が、ちぃっと勘違いしとったじゃろうと思うんですけども。
修行と言う事が、そりゃもうあれでは信心は伸びません。一生が修行と仰るのだから、やっぱ修行でなからな。そりゃねもうあれも割り切って、これも割り切ってお参りが出来んとも、まぁこれもご都合と言った様な、生き方をすればいいです。けれどもそれでは信心が進みませんもんね。だから結局本当に日々取り組んでおるもんでなからにゃ、分からんと適わんです。だから楽と言う事は、例えば成程今日はあの、羽田野さんが頂いておられるように石にね、山という字が彫りこんであったとこういう。
是が私共の信心です。山と言う事は修行と言う事。石と言う事は心と言う事意思ね。今日の御理解を頂きながら、そう言う事を頂いたと、羽田野さん言っておられますが。もう修行と言う事だけは、心の中に刻み込んどかないかんち言うこと。しかもそれは厳しい、こうしたもんじゃなくてから、それこそ目下の者から喧しゅう言われながら、ねぇごつ言うのち言うごたる、ジガジガするようなもんじゃなくてですね、どげん言うて喜ばせようかち言う様な心が生まれてくるのが、本当修行です。
しかも修行が段々高度な、もっともっと高度なもんになっていかなきゃならん。いうならば、たったこのくらいの事が、自分の胸にはばからない、どうか言わにゃおられなくなってくると言う所に、自分のおかげの受け物のこまさを感じさせて頂いて、これが大きくなる薬だこれが頂く、これを取り逃がしよったんじゃ、おかげは頂かれんと思うてね、これを一つ愈々心ば大きくしていくという楽。成る程楽とは心が大きくなると言う事が楽だ。と言う事と同時に今度はこちらが楽になってくると。
今度は下さる方の楽。是は所謂、傍を楽させるという生き方にさえなりゃ、自分が楽になろうじゃなくて、傍を楽させようという楽にさえなればね。もうそれこそ今度は、傍を楽させようとする者に、神様が楽をさせずにはおかんという働き。この楽と今の楽とが、二つ頂けるようになったら素晴らしいですね。本気で一つ修行、本気で修行に取り組んで、それが歯を食いしばったようなのでは、あれは不思議な事で、自分が一生懸命修行しよると、何かジガジガするのが生まれてくるですね。
他の者がこう、ふうたら温く見えてくるわけです。私がこうしてこう修行しよるとに、あんただんち、口には言わんけども、そう言う様なものが形に出てくるわけですね。だからそう言う様なものではない、もっと尊い修行がね、みなさんの場合出来なきゃならんと。それこそ今日は久富クニカさんが頂いておられるようにね、もう煮ても焼いても食われないもの。これはもう神様でもね、あのビニールなんかが土地の中に、こう肥料と一緒に入っとっでしょ。色々五目ぞと一緒に。
他のもんな奇麗に泥になっていくわけです。所がビニールとかね、あぁ言うプラスチックなんかの類は、決して泥にならないんです。だからこげんとが、煮ても焼いても食われん。そげな、ビニールやら、プラスチックのごたるものが、お互いの心の中にあるとです。もうこれがどうにも出来ん。だからこれはもう引き抜くより他にはないです。引き抜くより他にない。久富さんそれがね奇麗にこう引き抜かれて行く所を頂いた。だからあんたどんが夫婦には、もうどうにも出来ないものがあるもんのと。
けれども今の信心修行によってです、こう引き抜かれていきよるというそれが。もう是は壊す事は出来ない、泥にする事は出来ない是が私は煮ても焼いても食われんものだと思うですね。そういうものがお互いにある。それがおかげを頂けん元になっとるんだから、それがやっぱり引き抜かれなきゃいかん、泥ん中から引き抜かれなきゃいけん。お互いの心の中から、引き抜かれなきゃいけん。それがどう言う様な生き方かち言うと、結局やっぱり修行です。修行からそれが引き抜かれるおかげになって来る訳ですよね。
どうぞ。